不妊について

不妊体験談「ふぁいん・すたいる」

私の選択〜「子どもがいないからこそできることを、夫と二人で模索しています」
でみさん

はじめに

私は、35歳で結婚して、38歳から42歳までの4年間、不妊治療を受けました。最初は、一般の病院で人工授精を12回、その後、不妊専門のクリニックに転院して、体外受精や顕微授精による胚移植を計6回、一度だけ妊娠反応が出ましたが、9週で流産し、最終的には二人の生活を選択しました。
20歳代の頃は、仕事をすることが楽しくて、結婚に対してはマイナスイメージを持っていました。残業の多い職場だったので、結婚して家庭を持ったり、子どもを産んだりしてしまったら、好きな仕事に打ち込むことができなくなってしまうと考えていたのです。
でも、30歳をすこし過ぎたあたりから、心境が変化しはじめました。せっかく女性に生まれたのだから、子どもを産んで育ててみたい。そんなふうに思いはじめたのです。一度決めたら、すぐに行動に移すほうなので、さっさと結婚して、さあ、次は子どもだと意気込んだのですが、なかなか妊娠できません。それでも、結婚生活は独身の頃に想像していたよりもずっと楽しくて、子どものことはあまり気にとめていませんでした。さすがに38歳になった時には、不安を感じて、県の不妊相談窓口に相談して、病院を紹介してもらいました。この時、私は自分が不妊症とは夢にも思っていなくて、最初の人工授精の帰り道に妊娠とお産について書かれた本を買って帰りました。これで、妊娠できるに違いないと思っていました。この後、つらくて苦しい不妊治療の日々が待ち受けていることを、その時の私は想像さえしていませんでした。

頑張ったことが報われない

不妊治療を受けていた時、一番つらかったのは、頑張ったことが報われないということでした。不妊を経験する前の私は、頑張ればどうにかなるものだと信じて疑いませんでした。実際、頑張ればどうにかなってきたし、どうにかならなかった時には、頑張りが足りなかったという自覚がありました。
でも、どんなに頑張っても、私は妊娠することはできませんでした。決められた日に病院に通い、決められた時間に薬を飲み、胚移植後は、医師の指示通りに過ごしました。まじめに一生懸命に取り組んでも、結果を出すことはできませんでした。どんなに頑張っても、どうにもならないことがあるんだということを、初めて思い知らされました。

自分を責める

この頃は、私がこんなに頑張っても妊娠できないのに、世の中の他の女性たちは、簡単に子どもを産んでいるようにみえました。実際には、皆、それぞれ大変な思いを経験しているのかもしれません。でも、他の人は普通にできることなのに私だけができないという劣等感を感じはじめていました。そして、それがそのまま自分を責めるという気持ちに変わっていったのです。
よく、失敗は成功のもとといわれますが、失敗した時、何が原因だったのかを反省して、次につなげることはとても大切だと思います。でも、いくら後悔したり、自分を責めたりしても、過去を変えることはできません。この頃の私は「あれをしたから、妊娠できなかったのかもしれない」とか「あれをしなかったから、妊娠できないのかもしれない」に始まり、「もっと早く治療を始めていれば妊娠できたかもしれない」さらに、「もっと早く結婚していれば妊娠できたかもしれない」と、自分を責めることばかり考えていました。妊娠できないことで、一生懸命仕事をしてきた過去の自分さえ否定したくなってしまっていたのです。
さらに、私は丈夫で健康なのがとりえだったので、自分の身体なのに、自分でコントロールできないということも、自分を責める気持ちに拍車をかけていました。月経が始まってしまった時に、自分の太ももを叩きながら、「もうこんな私なんかいらない!」と泣き叫んだこともありました。

先が見えない不安

不妊治療のつらさの一つに先が見えないということがあると思います。
治療を受けている時は、いろいろな選択を迫られました。充分な医療説明があれば、患者の不安は解消されるという考え方がありますが、私は医療説明だけでは、不安はなくならないと思っています。治療を選択する時、医療者の皆さんから、正しい情報を教えてもらったり、患者の側も必要な情報を勉強したりすることは、とても大事だと思います。正しい知識がなければ、より良い治療の選択はできないからです。でも、私は治療の内容について充分に説明してもらっても、不安は解消されませんでした。
たとえば、体外受精の着床率について説明してもらった時、妊娠できない確率のほうが高いんだなということはわかりました。でも、私が本当に知りたいことは、「私はどうなの?」ということです。「私は、妊娠するほうの数字に入るのか入らないのか」さらに、「受精卵のグレードはとても良いと言われたのに、なぜ、妊娠できなかったのか?」「あと何回、体外受精を受けたら、妊娠できるのか、それともできないのか?」これらの疑問に答えてもらえたら、きっと不安はなくなるのだと思います。
でも残念ながら、それは誰にもわかりません。誰にもわからないけれど、私たちは選択をしなくてはいけないのです。「また妊娠できないかもしれない」「この先、ずっと妊娠できないかもしれない」という不安を抱えながら、治療を続けていました。

私の選択

最終的には、私は夫と二人の生活を選択しました。治療をやめたのは、できるだけのことはしたと自分で納得できたことと、私なりの「夢」を見つけることができたからです。
3回目の体外受精で妊娠反応が出たものの、5週目からホルモンの数値が上昇せず、医師からは流産の可能性がかなり高いと言われていました。でも、その子は、それから1カ月間、私のおなかの中で頑張り続けていました。その間、私の感情は、「もうダメかもしれない」と「きっと大丈夫」という絶望と期待の間を何度も往復していました。完全に流産だとわかってしまえば、対処のしようもあるけれど、どちらなのかわからない不安定な状態が一番苦しいと感じました。実際、掻爬手術が終わった後、泣きたいだけ泣いたら、気持ちがすっきりして、1カ月間持ち続けていた、こころのおもりがなくなったように感じました。
一度妊娠できたのだから、きっと子どもが授かるはずだと期待がふくらみましたが、その後は妊娠することはできませんでした。受精卵のグレードも少しずつ落ちてゆき、年齢的な限界も感じはじめていました。そんな時、通院していたクリニックで、カウンセリングをしている人の言葉に傷つくという経験をしました。同じことを一般の人に言われたのなら、あっさり聞き流せたと思います。でもカウンセリングをしている人なら、きっと私の気持ちをわかってくれるに違いないと、かってに思い込んでいました。相手に期待し過ぎてしまったために、必要以上にその人の言葉を重く受け止めてしまったのだと思います。
それをきっかけに、あちこちの不妊のセミナーやシンポジウムなどに積極的に出かけて行きました。そこで、とても魅力的な心理カウンセラーの方の話を聞くことができ、心が軽くなったこともあります。でも、失望を味わったこともたくさんありました。不妊の苦しさの根本的な理由をわかっていないのに、なぜ、不妊のカウンセラーだと名乗っているのだろうと感じたこともあります。

そうした経験から、もし、子どもを諦めたら、私が理想のカウンセラーになりたいという気持ちが、徐々にふくらんでいきました。最初は小さな小さな夢でしたが、日ごとに大きく育ってゆき、不妊でつらい思いをしている人たちの心を軽くするお手伝いをしたいと思うようになりました。それは、子どもを産み育てることと同じくらい魅力的なことに思えたのです。自分の気持ちがはっきした時点で、夫と話し合い、あと1回体外受精を受けて、もしダメだったら、不妊治療をやめることを決めました。私がカウンセリングの勉強をしたいと思っていることを話すと、夫は協力すると言ってくれました。
そして、妊娠判定の結果を聞いた帰り道、「私たちの子どもを産むことができなかった。ごめんね」と泣いた私に、夫は「子どものことは残念だったけど、子どもがいないからこそできることもあるから、これからは、二人でそういう生活をしよう」と言ってくれました。夫のこの言葉は、私の大きな支えになっています。

夢をかなえるために

治療をやめてすぐに、通信制の大学に編入して、心理学やカウンセリングの勉強を始めました。子どもを得るために注いでいた情熱を、そっくりそのまま勉強することに置き換えたのです。そうやって、「もうすこし治療を続ければ妊娠できるかもしれない」という気持ちにふたをしました。この頃の私はムキになって勉強していたように思います。頑張っても妊娠という結果を残すことはできなかったけれど、頑張って勉強すれば、試験で良い点数をとることができました。これで、失ってしまっていた「自分を信じること」を、取り戻していったのかもしれません。妊娠できなくても、ここまで生きてきた私を、すこしずつ受け入れることができるようになりました。
現在、夫は鍼灸師の資格を取るための学校に通っています。結婚した頃は、アパレル業界とIT業界で、それぞれ仕事をしていた私と夫が、今ではこころや身体を癒やすための勉強を始めています。不妊で失くしたものはたくさんあったけれど、それ以上に得たものもたくさんありました。今は、「子どもがいないからこそできること」を、夫と二人で模索しています。

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「ニューヨークでの治療体験記」
あんあんさん

私たちは2005年9月から東京のあるクリニックで不妊治療を開始しました。ひと通りの検査を終えたあとすぐに人工授精を2回したのですがうまくいかず、翌年2006年1月初めての体外受精をしました。当時私は40歳でしたが嬉しいことに妊娠しました。ところが心拍確認が順調にできたにもかかわらず、8週目で流産してしまいました。病院で手術を受け、2006年5月に2回目の体外受精をしました。その後5回の体外受精を試み(うち1回は卵胞の育ちが悪く、採卵前にキャンセル)、すべて陰性に終わって2007年の春になっていました。私はもう42歳、当初ぼんやり考えていた治療のタイムリミットの歳になってしまいました。でも私も夫もまだあきらめたくありませんでした。と同時に今までと同じクリニックで、言われるままに治療を受ける気持ちにもなりませんでした。また、6回目の体外受精が陰性に終わった時、ドクターからも今後ご主人とよく話し合ってみてください、というようなことを言われていました。転院の時期かな、と私たちは思うようになっていました。

夫はアメリカに行くことも考えてみよう、と提案してきました。もうこれまで何度も治療してきたし、今後も何年も治療し続けられない、それなら妊娠率が高く、評判の良いところで治療を受けるべきだ、と言うのです。確かにアメリカのいくつかのクリニックは非常に妊娠率や出生率が高いです。私も自分たちができうる限りの最良の選択をしないとのちのち後悔する、と思い始めるようになりました。夫はオーストラリア人だし、ドクターと直接英語で話せるし、おそらくもっと質問しやすいだろう、と思ったのです。

クリニック選びですが、その選択にあたっては、海外からの患者をたくさん受け入れている(例えば移植後帰国するタイミングを指導してくれたり、日本にいるときにはメール対応してくれたりなど、アメリカ国外からの患者も扱い慣れていること)、妊娠率が高い、の2点を条件としました。
早速、必要書類を取り寄せましたが、何しろ分量が多い! 50ページくらいあったでしょうか。これまでの不妊治療履歴だけでなく、風疹、水疱瘡などの伝染病を含むすべての病歴、家族の病歴、薬に対するアレルギーなどについての問診、医療保険について、治療費の分割払いの案内、誓約書・・・と際限なく続きます。これを記入していくだけでも大変な作業になるな、と気が重くなりました。

それに排卵誘発剤や黄体ホルモンなど注射に使う薬も現地で自分で調達しなくてはいけない・・、スーパーで野菜を買うのとは違ってちょっと尻込みしました。それでそんなことを手伝ってもらえる機関がないだろうか、とネット検索し、ある日本人女性がやっている医療コンサルタントのウェブサイトを見つけました。
その医療コンサルタントでは、こちらから情報を提供すればすべての事前の書類作成をしてくださり、また、薬も安心でより安いところから取り寄せてくださるとのこと(とはいってもアメリカの薬は高いですよ、と釘をさされましたが)で、治療中の不安が激減します。おまけに、医療コンサルタントから紹介していただいたニューヨークのクリニックは、出生率が高いだけでなく、日本から治療に来るケースにも扱い慣れており、さらに医療コンサルタントがアメリカのドクターの指示に従うことのできる日本の提携施設を手配してくださるとのことだったので、そこに決めました。

このふぁいん・すたいるでは、ここから始まるニューヨークでの治療体験の中で、クリニックに通い始めた頃と、特に大変だった自己注射について、書いてみたいと思います。

治療をすることを決定してから、初診のためいつニューヨークに行くのかスケジュール調整が始まりました。私はクリニックとの直接のやりとりをしなくてもよく、これは医療コンサルタントが私に代わってすべてしてくれました。また、私のこれまでの治療歴を含むすべての必要情報も私に代わって書類記入、クリニックに提出してくださいました。

まず生理が始まって2日目か3日目に事前検査と、6日目〜10日目のどこかでまた別の検査および初診があります。医療コンサルタントは、こちらの負担を軽くするためになるべく日本でできるものは日本のドクターのところで、という手順を整えてくださっていました。私の場合も2日目もしくは3日目の検査は東京の病院で受け、その後すぐに渡米し子宮腔内注水検査を受け、引き続き内診、ドクターからのお話を伺いました。

ニューヨークにはなんとか夫も仕事の都合をつけ、同行してくれました。8月27日から3泊4日の旅程で、診察は29日に予約されていました(夫同伴はもし無理であれば必須ではないそうです)。ニューヨークでの初診の日は、医療コンサルタントも同行します。それは、彼らはドクターから提案される方法(英語では「プロトコール」と呼んでいます)をもとに、本番のスケジュールを組み、本番で注射する、また服用する薬の注文をしてくれるからです。また医療通訳も希望に応じてしていただけます。
ドクターとは1時間強くらいお話したでしょうか。十分質問に答えていただけまたそれ以上質問があれば日本に一度帰ってからでも直接メールをくださって結構ですよ、とおっしゃってくださいました。私も夫も質問が枯れるまで十分に時間をとってもらえる体制にとても満足しました。

初診を終え帰国しましたが、すぐに翌月の本番サイクルに向け渡米の準備を始めなくてはいけませんでした。私の場合幸いにも定期的に生理がくるため、この予定は比較的たてやすかったと思います。夫には採卵の予定日(たいてい注射が始まってから11日から13日の間)をはさんでだいたい1週間くらいの滞在をするよう、調整してもらいました。そして出発までの間に疑問となる点はすべてメールでのやりとりで解決しておきました。

ジョン・F・ケネディ国際空港では、医療コンサルタントの方が大きな箱を台車に乗せて待ってくださっていました。「いったい何なのでしょうか」と尋ねると「これ、今回治療で使うお薬よ」とさらっと言われてしまいました。ドクターの処方箋に基づき、サイクルの全期間で使われる薬や注射器、針、アルコール綿などすべてがこの箱の中に入っていたのです。アパートに着くと医療コンサルタントの方がすぐに箱からペン型のGonal Fを取り出し、冷蔵庫に入れてくださっていました。Gonal Fだけ要冷蔵だそうです。医療コンサルタントの方は「サイクルに入ったらその都度指示があるので、それまでは何もしなくて大丈夫」と軽くおっしゃっていましたが、それにしても、薬の種類の多さにかなり面食らってしまいました。

生理になったので治療を開始しました。2日目に血液検査、内診で、医療コンサルタントの方と2人、クリニックへ向かいました。
ニューヨークのクリニックでの通院は、採卵までは血液検査と超音波検査だけで数回ですみますが、私の場合は少し多く、結局5回行きました。
ナースから、「今日の夜だけGonal F 300単位と Menopur 150単位を打ち、明日からは朝Gonal F 300単位、夜Menopur 150単位をだいたい決まった時間に皮下注射(もちろん自分で)をする」よう指示をもらい、それぞれの注射の仕方について教えてもらいました。とはいってもあまり詳しく教えてくれたわけではなく、「クリニックのウェブサイトでビデオを見て学ぶか、もしくは薬についている説明書を見ながらやってね」と言われてしまいました。日本のクリニックで自己注射する前は、丁寧に教えてくれて模擬練習までしたのに。これがアメリカの患者の自己責任というものなのか、と最初のため息がでてしまいました(その時はわからなかったのですが、これから先、違った種類の注射器に何度も焦り、緊張することになります)。
そして夫は、Doxycyclineという精子中にバクテリアが入り込むのを抑えるための内服薬を採卵の日まで飲むことになりました。このお薬もあらかじめドクターに処方箋を書いていただき、日本で購入しました。

夜、ペンタイプのGonal Fを注射しようとしても薬液がでてこず、下腹部に空気を注射し出血させてしまった私。何度も説明書を読み返し最初にすべき手順を見逃していたことに気がつき、やれやれ、と注射。1本が900単位なので3回注射すればちょうどなくなり、次のペンを新規で使えます。
続いて Menopur 150単位。こちらはパウダー状のバイアル(薬が入っているガラスの容器。口がゴム状になっていて、注射針を刺して薬液を吸い取ります)1本75単位を2本、生理食塩水1mlに溶かし、針をかえてから下腹部に注射。バイアルの取り扱いはすでに日本のクリニックの体外受精で経験済みだったので、何とかなるだろうと思っていたのですが、こちらも空気が入ってしまい薬液が思うように吸えなくて時間がかかりました。やれやれ。

胚移植後の黄体ホルモン補充時も、筋肉注射を初めて自力で終えたあとは冷や汗でびっしょりでした。私にとっては注射がニューヨークでの治療における一番のハードルでしたが、でも人間「これしかない」と追いつめられるとできるものだと実感しました。

ニューヨークでの治療は、「自己責任」と「情報量の多さ」に尽きると思います。また、ある程度治療自体を楽しむという姿勢も必要なのかな、と感じました。

私のふぁいん・すたいるは、まだまだこの先も続きます。また改めて、Fineウェブサイト等で体験談として紹介させていただきたいと思います。

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「福祉先進国での不妊治療」
NAKさん

私は日本での不妊治療を経験したことがありません。
だから日本の不妊治療の様子はネットなどの情報からしか垣間見ることはできませんが、こちら福祉国家の北欧は、治療法や取り巻く環境が日本とは多少なりとも違った部分があるように感じています。ちなみに私が住むのはムーミンの母国、フィンランドです。例えば…、

1)基本的に不妊治療には保険が適用されます。
年間のお薬やホルモン注射代が、ある一定額を超えると、それ以降は全て無料になります。その「ある一定額」などは、ICSIを1回やるだけで簡単に超えてしまう。だから年に何度もICSIをやる場合、2回目以降のお薬や注射代は完全に無料!! 採卵や移植、診察費用などももちろん、保険の対象です。
ただし数年前の保険改正により、40歳以上の【加齢が原因】の不妊患者に対しては保険適用がなくなり、私は大ショック! 
つまり、加齢は“病気ではない”という理由からです。

2)自己注射です。
初めての時は、本当に緊張し、ドキドキしました。失敗したらどうしよう…って。案の定、上手く針が刺せなくて、何度も刺し直してはおなかに内出血ができる。夫は私が注射を打つ姿すら、恐がって見ることができずに、いつも別の部屋に逃げて行きました。
でも、「慣れ」とは恐ろしいもので、今では立ったままでも、あっという間にブスリ。通院の手間がはぶけると考えれば、簡単でラクチンです。治療法により、最多では1日に3本打つこともありました。この時はさすがにおなかがシクシクしましたけれど。
ちなみに日本のクリニックでは自然周期などの、体に優しい治療を行なっていると聞いたことがありますが、こちらは高刺激でアンタゴニストが主流です。

さてさて。海外生活や、海外での不妊治療の中で、私が最も大変だと思ったのが何よりも『言葉の壁』でした。日本を離れ、夫の母国であるフィンランドで生活を始めて早くも6年。今でこそ、日常会話にはほとんど不自由しなくなりましたが、最初の数年間は本当に苦労しました。フィンランド語は世界の言語の中でも特に難しいものだといわれているので…。こちらではもちろん、英語もよく通じます。でもやはり生活する以上、“この国の言語”を取得しなければ…と思い、語学学校に通い、毎日毎日、大学受験生並に勉強しました。
特に医学用語は難しい。我が家では、というか、この国では不妊クリニックへの通院も、“夫婦揃ってが当たり前”な感じなので、最初の頃は夫がドクターの説明を私に英語で通訳するという状態でした。それでも例えば、診察台に上がっている時など、ドクターがモニターを見ながら何かを言っているけど、私には全くチンプンカンプン。頭の上には「?」マークが大量に飛び交うだけ…そんな時は本当に緊張するし、大きな不安も感じました。医学や不妊用語なんて日本語でだって理解が難しいのに…。だから言葉の壁を最も深刻に感じてしまったのは、『自分が病気の時』そして『不妊治療の時』、つまり自分の心や体がとても弱っている時なのでした。
『家庭やプライベート第一主義』であるヨーロッパ。日本のビジネスマンには考えられないことでしょうが、うちの夫は仕事から抜け出しては毎回、不妊クリニックに付き添ってくれます。採卵の間も夫は診察台の横に座り、私の手を握ったり、頭をなでたりしながら応援してくれます。不妊治療は女性だけが苦しむものではない! 夫婦が力を合わせ、プロジェクトを進めていく!
これって本当にありがたいし、つくづく大切だと思うし、何よりも不妊治療を通じて、ますます夫婦の絆が深まったとも感じています。

ところで、日本とこの国を比べて感じた、『不妊を取り巻く環境の違い』について書いてみたいのですが…。
私が通うAクリニック。一歩中に入ると、そこはまるでホテルのロビーか、はたまたお洒落なカフェのような雰囲気。コーヒーに紅茶にココア、そして、マフィンやキャンディー、チョコレート…と、自由にいただける飲み物やお菓子がいつも嬉しい。そして、この国有数の実績を持つ不妊クリニックとして有名です。
またフィンランドでは、どの分野でも女性が大いに活躍しています。大統領も女性だし、女性の社長さん、女医さんなどもとても多い。Aクリニックのドクターたちもほとんどが女医さんです。もちろん私の主治医も。第一子はこのクリニックのおかげで、タイミング〜AIHを経て、3度目のICSIで42歳の時に授かりました。その前には子宮外妊娠も経験しました。

そして昨年、また2人目が欲しくて治療を再開した時のこと。どうしても子どもの面倒を見てもらえるような人も場所もないので、仕方なく子ども同伴で通院せざるを得ませんでした。
日本の不妊専門クリニックでは「お子さま連れはご遠慮ください」 という所が多いと聞いています。 それに私も、“そうしなければならない理由”がわかるつもりです。 不妊治療中は妊婦さんや赤ちゃんなどを見るのが、とってもつらい時があるから… 他人の妊娠なんて喜べないような、不安で苦しい気持ちで病院の待合室に座ることが多いから…。
だから私は、事前にAクリニックに子ども同伴でも良いか? と尋ねてみました。そしたら、どうしてそんな質問をするの? とでもいうような驚いた表情で、 「もちろんOKよ!」との返事。 そのうえに、待合室のど真ん中には子どもが遊べる玩具があれこれ用意されており、 つまり子ども同伴はノープロブレムという訳なのです。
私は夫に思わず聞いてみました。 「この国の女性たちって、自分が治療中に小さな子どもを見たりするのはつらくないのかな?」 すると夫曰く、「“つらくなる”というよりは、“励まされる”と思う人のほうが多いんじゃないかな? 私たちも絶対に頑張ろう!ってね」 ふむふむ、なるほどフィンランド人たちはポジティブで心が強いのかぁ〜と思った瞬間でした。

またこの国では、治療のカミングアウトにしても、高年齢で子どもを望むということに関しても、周りの偏見や理解のなさを感じたことは今のところ一度もありません。「もうこんな歳だから」と不妊治療に対して後ろ向きになっている私に、「やってみなきゃわからないじゃない! 頑張ってみようよ!」と背中を押してくれたのは、私の主治医であり、そして周りの温かい環境でもありました。

私にこのAクリニックを紹介してくれた仲良しの友人Tは、私とは比べ物にならないほどの長い長い不妊治療の年月を経て一人息子を授かりました。2度の子宮外妊娠により、両卵管も摘出。そして何度もの採卵、移植も上手くいかず、もう子どもを諦める方向に考え始め、養子縁組の手続きも始めていました。
でも、残っていた“最後の凍結胚”を移植し、奇跡の妊娠、そして無事出産。その息子さんは今年で9歳になります。
私がTと知り合ったのは、私たち夫婦がまだ新婚当時の約6年前。もともと、T夫妻は私の夫の親友です。ある日、まだお友だちになって間もない私にTは明るく、笑顔でアッサリとこう言いました。「ウチの息子、冷凍庫に眠ってたのよ〜(=凍結胚)」と。
その当時はまさか自分たちが不妊治療のお世話になるとは、これっぽっちも予想すらしていなかったし、不妊治療や、ましてや体外受精のことなどに全くの無知だった私は、それがどういう意味かもわかりませんでした。でも彼女が乗り越えてきたハードな治療経験談を聞き、私は不思議と何の偏見も持たず、彼女の言葉を心で自然に受け止めることができました。彼女の過去の苦労は、今現在の最高の幸せが帳消しにしているな…とも思ったものです。
そしてその後、このTの存在は、私が治療に苦しんでいた時、子宮外妊娠でせっかく宿った命をお空にかえし、自暴自棄になっていた時にも、大きな心の支え、そして目標となりました。
ネットの掲示板などの投稿でよく見かけるのは、「治療のカミングアウトができない」と悩んでいる方が、日本にはたくさんいるということ。カミングアウトができない状況、つまり、カミングアウトしても、“理解してもらえないどころか、偏見の目で見られるに違いない”という不安を生む、周りの環境なのでしょうか。私自身、こちらの国では治療のことを職場や周りには安心してカミングアウトしています。ましてや、「子どもはまだ?」「どうして子ども作らないの?」「不妊治療なんてリスクが大きいんじゃないの?」「40代で妊娠なんて無理でしょう?」・・etc、そんな心ない言葉を投げかけられて傷ついたりしたことは1度もありませんでした。
またこちらでは、“子どもがいる家庭だけが家族の単位じゃない”ってこと。この国は同棲率、離婚率などがとても高いため、『家族の形』は本当にさまざまなのです。精子卵子提供、代理母、特に養子縁組などに関しても特別視されていないため、よその家族構成なんて、いちいち気にしていられないし、他人が干渉すべきではないと皆が心得ているように思えます。だからつくづく、こういう環境にいられることに私は感謝しています。

最後に。私にとって、遠い日本から発信されるFineのウェブサイトは本当に大きな心の支えでした。もちろん今でも。フィンランドにこのような団体があるのかどうかはよくわかりません。でもまるで日本に住んでいるかのように身近に感じられる、母国語で読めるFineにはいつも、苦しかった心を軽くしてもらっていました。「つらいのは自分だけじゃないんだ!」「ひとりぼっちじゃないんだ!」と。Fineの運営にご尽力くださっているスタッフの方々に改めて感謝の気持ちを伝えたいです。ありがとうございました!!

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「夫と歩む不妊治療」
妻:かのんさん

きっとこれを読む誰もが過去に感じたであろうように、私も結婚すればすぐに子どもができると思っていました。多くの人が簡単に、普通に成しえていることが、私にはできないという現実が本当に私を苦しめました。
子どもも生めないのに生きている価値があるのか、女として妻として、人として存在する意味がわからなくなったことも、夫や夫の両親に対しても申し訳ない気持ちでいっぱいになり「はずれクジを引かせてしまった」と感じ、離婚を考えたこともありました。
自分の親が、親戚や近所の人との孫の話題に混じれない様子を見れば胸が引き裂かれそうな気持ちになり、親から、先祖から受け継いできた命を私で止めてしまう責任に耐えられず、消えてなくなりたいと思ったこともあります。
今までの人生では夢や目標など、大抵のことは自分の努力によって手に入れることができると教えられてきたし、実際にそうやって叶えてきた夢が多くあります。だから、子どもができないということは、人生において最初で最大の挫折でした。
世の中にこんなに苦しい悩みがあるのかと、なぜこんなにも望んで、いろんなことを我慢して、努力をしているのに叶えられないことがあるのかと、人生は不公平だと神様を恨んでいました。
友人の妊娠を知れば心から祝えない、羨ましくて真っ直ぐに顔も見られない。芸能人の妊娠でさえ心中穏やかではいられない。そんな心の持ち主だから神様は私を母にしてくれないのだと自分を責め、嫌いになり、全てにおいての自信を失っていきました。
その頃の私は将来が不安で怖くてたまりませんでした。できるかできないかもわからないまだ見ぬ子どものために大金をつぎ込み、貯金はなく、夢だったマイホームなんて手に入れるどころじゃない、いろんなことを我慢して、治療を最優先するために仕事を辞め、これで子どもができれば報われるけど、子どもができなかった時の私には、仕事も貯金もマイホームも何にも残らない。それが本当に怖かったのです。
ある時、その不安を夫にぶつけて泣きました。すると、夫は今まで見せたことのない悲しい顔で「俺がおるだけじゃあかんか?」そう言いました。
私はその言葉で私の中の何かが変わりました。
こんなにも私を思ってくれる大切な存在がいるのに、辛い不妊治療を一人で戦っているような気持ちになり、真っ暗な長くて出口の見えないトンネルを一人で彷徨っていると思っていました。

でも私が真っ直ぐ勇気をだして一歩踏み出せるように、いつでも後ろから支えていてくれていた夫、足元の石ころを私が踏まないように、段差でつまずかないように、いつでも気を配ってくれていた夫の存在に、この時ようやく気が付くことができました。
私は不妊治療にのめり込むあまりに、純粋に子どもが欲しいという気持ちを忘れ、自分の存在価値を見出すため、劣等感を埋めるために子どもを得ようとしていた気がします。夫婦あっての子どもなのだということ。そのことに気付けてから、私は今でもあの頃と変わらず、子どもも貯金もマイホームも仕事もないけど、夫がいてくれるだけで不安に思うことはなくなりました。そしていつでも私と一緒にいてくれる夫に対して感謝し、尊敬し、信頼の気持ちが溢れてくるようになりました。

不妊治療では本当にたくさんの涙を流しました。
でも、この経験がなかったら今でも私はきっと我儘で傲慢だった気がします。しかし不妊治療を経験できたおかげで、私は一つ優しくなれたのではないかと思うのです。この経験のおかげで命に向き合い、自分のことや自分の大切な人たちのこと、すれ違うだけの人の命や植物の命さえ本当に愛おしく思えるようになりました。私は一人で生きているのではなく、多くの人に見守られ支えられ、生かされているのだということを知りました。
親に感謝し、命を与えてくれたご先祖さまに感謝し、そして今を精一杯生き抜こうと思えるようになりました。自信を失い生きる意味もわからなくなっていた私が、自分の人生を自分で輝かせようと思いはじめました。
不妊治療という経験は、人として一つ成長するために私には必要な経験だったように思います。
世の中に必ず誰かが割り当てられなければいけない試練があるとしたら、きっと神様はそれを乗り越えられる人を選び、「申し訳ないけどあなたにお願いします」と与えているような気がします(笑)。だから乗り越えられない試練はきっとないと思うのです。いってみれば私たちは神様に見込まれた、選ばれた絆で結ばれた二人なのだから。

私は思います。
人はそれぞれ小さな川を、小さな船に乗って進んでいます。
そして夫婦となる人と出会い、小さな川が交わって少し大きな川になります。以前の私はその大きくなった川を渡るためには、大きな船にして夫婦は同じ船に乗るものだと思っていました。しかし二人同じ船に乗っていてはなにかトラブルがあった時、二人とも溺れてしまいます。

実際、私たちも何度も何度も沈没しそうな船に乗っていました。
「私は前に進もうと頑張っているのに、何であなたは余所見をして休んでいるの?」「なぜ一緒にいるのに、私の気持ちをわかってくれないの?」同じ船に乗っていた時はそんなケンカばかりしていました。
ところが別の船に乗って、お互いの気配を感じる距離で自分のペースで船を漕げば「あぁ今疲れているのかな」「私を待っていてくれるからあそこまで頑張ろう」とか、お互いを気遣う気持ちが生まれてきます。またどちらかの船が沈没しそうなら自分の船に引き上げてやることもできます。
川岸の花を摘みに寄り道したりお昼寝したり、キレイな夕焼けを見つけたら一緒に眺めて、魚が釣れたら一緒に食べて、でも同じ川でも別々の船に乗る。お互いの力を信じ、それぞれが自分の力で生きていく。夫婦ってそうやっていくものなのだと今は思います。
不妊治療も同じで、同じ目的に向かって進んでいくけど、私は私の、夫は夫の楽しみを見つけながら、時には励まして、時には一緒に感動して、日差しが強ければ私が日傘を貸してあげ、流れが強ければ穏やかな場所まで夫に引っ張っていってもらう。
途中で目的地が変わったとしても、夫と二人で辿り着いた場所が私たちのゴールなのだと胸を張ればいいのです。
一緒に同じ川を渡ってきた、その過程が一番大事なのだと思います。

私の母はよく「二人が仲良くいてくれることが一番幸せ」と私に言います。先日、夫の実家へ帰省した際に同じことを義母から言われました。本当にありがたい言葉です。感謝の気持ちでいっぱいです。その日、そんな話をしながら義母と夫と3人で泣きました。私はこの日のことを一生忘れないと思います。
私たちは、もしかすると次の代に命を繋げないかもしれません。でも、私たちが二人仲良くいることが親孝行になるのなら、これから先も親孝行をしていける自信があります。

不妊治療という経験があったから気が付けたこと。
【感謝すること】【尊敬すること】【信頼すること】いつでもこの気持ちを忘れずに夫と歩む不妊治療、それが私の「ふぁいん・すたいる」。

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「夫が妻にできること」
夫:かずやんさん

私たち夫婦は不妊治療をはじめて8年目で、今も継続中です。今日までの7年間を振り返ってみるとたくさんの出来事がありました。妻の涙を何度見たことでしょう。些細な喧嘩から、もう戻れないのではないかと思うほどの喧嘩まで受精卵の写真や妊娠検査薬を一緒に見て一喜一憂したり、病院からの帰り道、二人で涙を堪えながら無言で帰宅したり、言い始めたらきりがないほどにいろんなことがありました。

治療を始めて5年程経った頃からでしょうか。私たちは不妊に対して考え方が徐々に変わり始めてきました。
まず変わったのは妻のほうです。妻は【不妊】ということを受け入れられたことが大きな変化だったといいます。まだ受け入れられない時は「ちょっと治療すればすぐに子どもが授かるであろう」とか、「私は他の人よりほんの少しできにくいだけ」と、【不妊】という言葉を受け入れることができなかったといいます。
長い治療の末に辿り着いた【不妊】であると受け入れられたこと、これがその後の治療に向かい合う中でも、前より気持ちが楽に思えるようになったようです。そして受け入れられるようになってから、苦しかった頃は見えなかったことが見えるようになってきたようで、色々と【気づき】があり、人として何が大事なのかを学び始めたようです。

反対に私はというと、まだまだ【気づき】にはほど遠く、治療に一緒に付いて行かないと文句を言われるからとか、家事を手伝わないと喧嘩になるからとか相手を思いやる気持ちより自分可愛さで、核心から逃げている状態でした。
治療が進む中でどうしても負担は妻が多くなり、自然に妻だけが頑張る状況になっていきました。先生から治療の計画を確認されても、日頃から夫婦で話し合っていないと、大きな決断を妻が自分の判断でしなければいけないことも出てきたでしょう。私に話しても、治療の内容など理解ができずに、「君に任せるよ、好きにしたらええ」 「先生がそうしたほうがいいと言うならそうしよう」などと、どこか他人事。そのことで妻との喧嘩も多くありました。
私は治療を始めた当初から協力してきたつもりです。妻の体調がよくない時は私が食事の支度をしました。掃除ができなければ何も言わず私が行ない、腰が痛いと言えばマッサージをし、検査や通院にも進んで付き添いました。

ただ、そういった【協力】には限界がありました。妻は私たちの子どもを授かろうと必死で治療をしています。体外受精の周期では、ほぼ毎日の注射。しかも筋肉注射という男では到底耐えられない痛みの注射を毎日毎日耐えているのも知っています。片道2時間かかる通院で体がシンドイことも知っています。
私に対しては口に出さないけれど後ろめたい気持ちでいるのも知っています。
近くの産婦人科で、注射だけを打ってもらうのに、妊婦さんと一緒に待合にいなければいけない辛さも知っています。治療のために節約に励み、いろんなことを我慢していることも知っています。
誰も悪くない。妻も辛いが、私も辛い。でもそれは、誰が悪い訳でもないのです。
そう思えるようになってからは「やらなければいけない」から「やってあげたい」に変わっていきました。
通院に付き添う、家事をする、働く、これらは気持ちが入ってなくてもできることであって、それはただの【協力】にすぎません。だが治療に協力するのではなくて、治療を一緒にするってことが必要なのではないのか? そう思い始めたのです。
私は積極的に治療について質問するようになりました。すると、妻からはいろんな治療の内容や心境など、今まで聞けなかったことが聞けるようになりました。そして治療以外のことや将来のことなど、二人でよく語り合うようになっていきました。また、今まで私は、思いや考えを自分の中だけに留めて、自分で答えを出そうとすることが多く、よく妻からは「何を考えているのかわからない」と言われていました。しかし、私はどんどん考え途中のことでも妻に話すようにしました。すると全く違う視点からの回答や、思わぬ解決方法に気付くことができ、更に妻との会話が楽しく増えていきました。
今までギスギスしていた家庭の中が明るく楽しいものに変わっていきました。
頑張った治療の結果がダメだった時もそうです。間違っても「次があるじゃないか!」などとは言えません。今までの私はどうやって声をかけていいかわかりませんでした。でもただ手を繋いでみる。妻が好きなケーキを買って帰ってみる。そんなことを続けていたら、妻の表情や言動はみるみる変わっていきました。
励まされると自分だけが頑張らなければいけないように感じてしまうようで、言葉などではなく一緒に不妊治療を戦っている、同じ気持ちなのだという実感が欲しかったと妻は言います。私が変わることで、妻の治療に対するストレスを一つ減らせたのではないかと思います。
治療に関してのストレスといえば経済的な問題も大きな割合を占めるのではないでしょうか。

実際に私たちも7年という治療歴の中で多くのお金を使い大変な我慢をしてきました。治療はしたい、でもお金がない、歳はどんどんとってゆき焦る気持ちがつのる。これは大変なストレスで夫婦仲も悪くしかねません。
以前妻に「ごめんね・・・金食い虫で」と謝られたことがあります。
私は夫が妻にできることはこれではないかと思いました。痛い注射を代わってやることはできない、さまざまな検査を代わってやることはできない、でも、やりたいと思ったときにやりたい治療を、お金の心配をしないでさせてあげたい。お金がないからと諦めさせてしまうことはしたくない。

今、私たちはとても幸せです。妻と二人の生活がとても楽しい。今の我が家は会話が途絶えず笑顔が絶えない明るい家庭です。そう思えるのもお互いが同じ価値観で、そして同じ目標に向かって行動していることにあると思います。
今の私は妻に対して「やらなければいけない」から「やってあげたい」に変わり、それを苦ではなく行なうことができます。やってあげたいという気持ちは見返りを期待しませんが、それでも「ありがとう」と言われれば嬉しいもので我が家でお互いに忘れないのは「ありがとう」という言葉と気持ちです。
そして今ではあんなに辛かった時期の不妊治療でも今では二人「不妊治療を経験できてよかったね」と言い合っている程です。

私には初めてのIVFで、妻が受精卵を目にした時の「私たちの受精卵だよ!!
今4分割だって! 受精して小さな命が今必死に生きているんだよ! すごいね! すごいね!」と、興奮しながら私に写真を見せてくれた時の笑顔が忘れられません。不妊治療を始めてから、あんなに幸せそうな笑顔を見せてくれたのは初めてでした。私は医者ではない、直接私が治療をすることはできない。しかしだからこそできることがある。男だからできること、夫だからできること、これからもまだまだ試練は続くことでしょう。迷うことも、立ち止まることもきっと多いと思います。でも、私たちは二人でそれを必ず乗り越えてみせます。どんな時でも二人が笑顔でいられるように。

私たちが歩んできた長く辛かった不妊治療中心の生活。しかし、それは私たち夫婦だからこそ課せられたものだと考えます。この経験は貴重で、学ぶことは無限にある。そして私たちはまだその入り口に立っているにすぎません。
これからも二人一緒に学び続ける、これが私の「ふぁいん・すたいる」。

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