不妊について

不妊体験談「ふぁいん・すたいる」

「それは“もしかして不妊?”からはじまった私たち夫婦の不妊治療波乱万丈記」
小宮町子 さん(埼玉県在住)

現在、初めて体外受精を受けた日から5年の月日がたとうとしています。36歳だった私もあっという間に40代。その間に繰り返した体外受精の回数は両手の指では数えられないほどになりました。毎回、これが最後だと思って採卵に挑み、受精をしたことに一喜一憂、子宮に移植をしてから判定までの2週間は「今度こそは」と願いながらの長い時間。しかし、妊娠は叶わず厳しい現実に直面しています。

なかなか諦められない自分と、それに寄り添う夫。そんな、私たち夫婦の不妊治療のお話です。

私たち夫婦は10年前に結婚しました。すぐにでも子どもがほしかったので、基礎体温表をつけて自分なりにタイミングを合わせてみましたが、妊娠の兆しはありません。悲しいことに、毎月生理は規則正しくやってきます。1年ほど経ち「もしかして不妊かも?」と、半信半疑の状態で近くの総合病院の産婦人科へ行くことにしました。もちろん、「どこにも異常はありません」と診断されて安心するためにです。

しかし、基礎体温表を見た医師から「高温期が短いので黄体機能不全気味ですね」と言われ、漢方薬が処方されました。生理が規則正しければ妊娠できるとばかり思っていた私は、大きなショックを受けました。また、子宮卵管造影検査では異常がなく、自然に妊娠する可能性は高いとの見解。精液検査もしましたが夫には問題はありません。黄体機能不全という病名がついたものの、それも大きな問題ではないようで、しばらく様子を見るというスタートでした。

まさか、長い長い不妊治療の始まりになるなんて、当時は思いもよりませんでした。医師の指示通りにしてさえいれば簡単に妊娠できると考えていたのです。

でも、なかなかうまくいきません。

高温期が安定してきたところで、人工授精を受けました。私も夫も「どこも悪くないのだから、これで妊娠間違いなし!」と期待がふくらみ、妊娠していない事実をつきつけられ大きく落胆しました。私より後から結婚した友人たちは次々と子どもを産んでいます。年賀状には赤ちゃんの写真、まわりからの「子どもはまだか」のプレッシャー、そして「子どもを2人産む」と自分で決めたライフプラン。あっという間に35 歳になり「もしかして不妊?」から、「私は不妊症だ」と自覚するようになりました。人工授精までしか受けられない総合病院から、体外受精も行なっているクリニックへ転院することに。

しかし、巷にあふれる多くの情報から1 つのクリニックに決めるのは容易ではありません。夫に相談しても「行きたいところへ行けばいいじゃないか」と、一緒に考えてくれません。本気で悩む自分と、夫との温度差をこの頃は感じました。

転院先の不妊専門クリニックでは、通気検査と子宮鏡検査をしました。卵管は通っていたので、人工授精からの治療が始まりました。

自分の意思で通いはじめたクリニックですが、今までとは何もかもが違い、苦痛でたまりません。職場の人たちには知られたくなかったので、どうにか理由をつけて仕事のやりくりをしながら週に何度もの通院に四苦八苦。待合室の雰囲気はとても暗く重い空気が流れています。診察室では緊張してしまい、医師の言葉を聞くのが精一杯。多忙な医師に質問なんてできません。スタッフは事務的な対応で、何を質問しても「次回の診察で医師に直接聞いてください」との答えが返ってくるだけ。頭の中はいつも疑問だらけ。「不妊治療は辛いものだ」と、自分を納得させてがんばって通いました。

ひとりぼっちの孤独さと、とまどうばかりの不妊治療。がんばらなくてはと思う気持ちと、何か重いものに押し潰されてしまいそうな不安感。やがて、帰り道に涙があふれてくるように。夫の「このまま治療を続けたら壊れてしまう」という言葉に、はっと我に返り、人工授精を2回受けた時点で通院をやめました。今、振り返ってみると自分では全く自覚していませんでしたが、精神的にかなり追いつめられた状況だったと思います。

しかし、そんなに辛い思いをしたのに治療を諦められません。

そして、新たにクリニックを探しはじめました。前回の失敗を踏まえ、クリニック選びはとても慎重になります。夫は、「行きたいところに行けばいいじゃないか。一緒に行かなくてはいけない時は、仕事の都合もあるから早めに教えて欲しい」と言うだけです。「なぜ、自分だけこんな思いをしなくてはいけないのか?」という気持ちと、「原因不明とはいうものの、男性側の問題は一つもなく、赤ちゃんができないのは自分のせいだ」と引け目もあった私は、夫にぶつけたい気持ちをぐっとこらえました。

3つめの施設となるSクリニックでは、年齢と今までの治療歴、検査結果などから体外受精を提案されました。37歳になる直前でした。

「通院をはじめて1カ月も経たないのに急ぎすぎではないか」と夫は抵抗しました。体外受精の成功率は年齢に反比例することを医師に説明され、急ぐ理由を納得。今まで不妊治療を受けていたにも関わらず、このとき初めて自分たちは「不妊カップルだ」と自覚したのです。

数回の通院で体外受精が決まったので、心の準備がなかなか整いません。スタッフから詳しい説明を受け、とても丁寧な対応と「わからないことや疑問に思ったことがあればいつでも質問してください」という言葉で不安が薄らぎ、体外受精を受ける気持ちになれました。そして、多くのスタッフが力になってくれると実感したので、以前のように一人ぼっちで治療を受ける孤独感はありません。また、クリニックによってこんなにも患者への対応が違うことにも驚きました。

いよいよ体外受精の周期が始まりました。職場には、不妊治療で通院していることを伝えましたが、体外受精を受けることは言えませんでした。決して誰にも知られたくなかったからです。

卵巣を刺激する毎日の注射は大変でしたが、あっという間に採卵の日を迎えました。当日はとても緊張しましたが、5個採卵することができました。

しかし、採卵中に脈拍が急激に下がり、数秒間心停止。

心肺蘇生で意識はすぐに戻ったのですが、原因不明のため詳しい検査を後日受けることになりました。妊娠中に失神すると赤ちゃんも母体も危険なので、原因がはっきりして安全が確認できるまでは受精卵は全て凍結。

思わぬ出来事で不妊治療はいったん休止です。ここまでたどり着くのにも長い長い道のりだったのに、目の前に立ちはだかる大きな壁。

頭の中は真っ白。

会計を済ませて外に出た瞬間、こらえていた涙があふれ出し止めることができませんでした。

それにしても、重大な病気が隠れていたとなれば大変なことです。精査するために紹介先の病院で入院検査をしました。結果は、自律神経が敏感に反応する体質で、そのために「発作=意識の消失」が起きたことがわかりました。

具体的には痛み・不眠・疲労恐怖・肉体的ストレスが自律神経を狂わせ、心臓が正しく動かなくなり失神してしまうということです。

採卵中に発作が起きたのは強いストレスが引き金となったと考えられます。治療できる病気ではなく体質なので、よく理解して上手に付き合うこと、麻酔は慎重に行なうこと、妊娠・出産は大変になることが予想されるなどの説明を受けました。

一番ショックだったのは、検査を担当した医師から告げられた「妊娠・出産を希望されているようですが、胎児のことを考えると薬の投与もできない。何かあった場合の保障はないので諦めるという道も考えたほうが良い」と言われたことです。

それを聞いた直後、病室のカーテンをしっかり閉ざした内側で、夫に強く抱きしめられ、お互いにかける言葉が見つからず、しばらくそのまま時間が止まってしまいました。

その後、他の医師より「生活の質を考えると子どもを望む夫婦に簡単に諦めなさいとは言えない」との意見もあり、自分の体質をよく理解したうえで不妊治療を継続することになりました。

失神発作は再現性が高いので注意することや、隠しての不妊治療や出産は絶対にダメという説明がありました。そして、自分と同じ疾患を持つ人の妊娠・出産のデータがほとんどないという現実を知りました。

さて、不妊治療継続の許可は出たものの不安は残ります。夫は「探せばきっとあるはずだ」と粘り強く文献を探しました。ネット上で助産師さんが書いた文献が存在することを知り、早速筆者にメールしコピーを送ってもらいました。

その文献の冒頭には「妊娠に合併した報告は全国的に1例しかなく・・・」と記してあり、これを探しあてたのは奇跡的だと二人で感激しました。また、病気を公表しているブロガーさんにも出会うことができました。彼女は、元気な男の子のお母さん。病気を持ちながらの妊娠・出産は大変だったようですが、病気でも子どもを産み育てている彼女には勇気をもらいました。

この出来事がきっかけとなって、それまで漠然と考えていた「不妊治療をすること」「子どもを持つことの意味」「二人だけの生活」などについて夫婦で何度も話し合い、お互いにそれでも子どもがほしいという思いが一致しました。そして、仕事と治療の両立は無理だと考え専業主婦になりました。

採卵をした日から3カ月、いろいろとありましたが胚移植の日が決まりました。解凍した2つの受精卵は、見た目は良好とのことで、私たち二人の期待は膨らむばかりです。

しかし、初の体外受精は残念な結果に終わりました。

さて、これからどうするか。

麻酔の管理や体調の変化に注意が必要な自分にとって、医師が1人のSクリニックでの採卵は無理、もう1度体外受精を受けるには転院せざるを得ません。

質の良い受精卵が得られたので、もちろん諦める気はありません。出産までのケアも視野にいれ周産期センターが併設されている大学病院へ行くことにしました。

その頃は、病気のことや困難が予想される先のことを考え気分が塞ぎがちになっていました。

今度の先生はどんな人か、通院を断られないか、次は成功するのか、答えの出ない問題に自問自答の毎日です。夫は「悩むだけムダだよ、落ち込んでいる姿を見るのが辛い、一人じゃないよ、そばにいるから」と支えてくれました。

大学病院では、万全の体制で採卵が行なわれました。しかし、複数の受精卵が得られても、病院の方針で移植の数は1個です。当時は、一般的には3個まで認められていたので複数移植してほしいと移植のたびに申し出てみましたが却下されます。

しかも、残りを追加培養しても胚盤胞まで育たず、凍結には至りません。

1回の採卵で1個の移植の繰り返しで、いつも排卵を誘発する注射からのスタート。注射の量も回数を重ねるごとに増え、体への影響も心配になります。妊娠できない理由を知りたくて、診察のたびに疑問を医師にぶつけてみましたが、「受精卵自体に問題があると考えるのが一般的。原因不明の不妊の場合はとにかく回数を重ねるしかない」との説明に納得できず、このまま薬を増やして卵巣刺激を強くするだけの方法に大きな不満がつのります。

5回目の結果が出た時点で、治療の継続を悩みました。

しかし、もう少し頑張れば良い結果がでるのではないかという望みも半分。迷いゆれる私の気持ちを察した夫は「もうそろそろ治療はやめよう」と提案してきました。気持ちの浮き沈みが激しく、情緒不安定、帰宅すると、暗い部屋にぽつんと一人いる姿を見れば当然です。しかし、予想しなかった提案に私は困惑しました。

そんな時、県主催の不妊の集いが開催されることを知り、申し込みました。でも初めて会う人と話せるかどうか不安でした。

不妊治療の悩みだけは、何でも話せる友人にも言えず、ぐっと心の奥底に閉じ込めてきました。わずかの振動であふれる寸前、私の心は限界ギリギリです。

集いでしゃべりだした瞬間、硬く閉じていた心の扉が開いて涙があふれ出しました。その涙を、そこに居合わせた仲間たちに受け止めてもらえたことで心が少し軽くなり、勇気を出して参加してよかったと思いました。

そこで、Fineの不妊ピア・カウンセラーの存在も知りました。

隔月に開催される不妊の集いには続けて参加し、話すことで徐々に気持ちの整理がつき、友だちもできたので、治療を継続する力がわいてきました。

また、治療お休み中に、子宮頸がん検診をSクリニックで受けました。問診のついでに「あれから何度も体外受精を繰り返しているのに妊娠できないのは、何か原因を見落としているのではないか」と相談しました。

すると、不育症の領域ではあるが、最近不妊治療でも注目されている抗リン脂質抗体症候群の検査を提案されました。不安要素は少しでも取り除きたいのと、もしも抗リン脂質抗体症候群であっても対処法があることを知り検査をしました。

結果は陽性。それを知った夫は、「今まで気がつかなかった病気が明らかになるってことだよ」とあくまでも前向き。「そのまま妊娠したら大変だったよ、予防できるのだからよかったじゃないか」とも。夫の言葉に治療を継続することの迷いは消えました。

そして、大学病院での治療を再開。

抗リン脂質抗体症候群であることを伝えたのですが、「あなたの場合は妊娠すらできないのだから意味はない」と言われ、困ってしまいました。初診時から担当してくれていた医師が他の病院に転出されることや、この大学病院では自分の望む治療が受けられないこともわかったので転院を決めました。

頼りはSクリニックの先生です。「自分の納得する治療を受けたい」と相談して転院先を紹介してもらいました。

40歳を目前に、これが最後のチャンスと力も入ります。紹介先のクリニックは、自宅から2時間かかりますが、信頼できる医師にめぐり合えたので、少々遠くても苦痛ではありません。転院後、刺激周期と自然周期を組み合わせ、ほぼ毎月採卵と移植をしましたが、妊娠には至らず、今では原因不明の難治性不妊だといわれています。

前年は、1年間に8回もの採卵を行なったので、治療費の捻出も大変でした。全速力で走ってきたので、心も体も疲れ、医師と相談をして、少し休むことにしました。

治療を休むことに全く不安はなかったといえば嘘になりますが、以前のように自分だけが何でこんな思いをしなくてはいけないのだと悩まなくなりました。

それは、Fineで不妊を経験した仲間に出会えたからだと思います。

また、治療だけにのめり込まずに心穏やかに過ごすことができるようにもなりました。これからは、不妊治療をしていることを無理してまで隠さず、自分らしく堂々と生きていけたらいいなと思います。

最近、半年振りに不妊治療を再開しました。休んでいる間は、「このまま二人の生活もありかな」とも考えました。しかし、もう少しだけ、家族が増える夢を見続けようかなと思います。自分のわがままとわかっていますが、夫はそんな私についてきてくれます。

この先どんな結末がやってくるかは誰にもわかりませんが、強く結ばれた私たち夫婦の絆は変わることはないでしょう。どんなことが起こっても力を合わせて乗り越えていけるような気がします。だって、二人はベストパートナーですから。

・・・あれからいろいろありましたが、現在も、夫婦二人の生活を送っています。

その後のことを含め、現在は私の体験談をたくさんの方に聞いていただきたいので、講演会などでお話しています。

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