昔から生理周期は順調、生理痛もなく、婦人科に無縁だった私は、「絶対妊娠しやすい!」となぜか自信があり、ほしいと思ったら、子どもはすぐにできるものだと思っていました。
27歳で結婚、「1年間は夫婦ふたりの時間を満喫して、子どもはそれから産もう」と明るい未来予想図を描いていました。
しかし、いざほしいと思い始めてもいっこうに妊娠の気配はなく、1 年が過ぎました。周りの妊娠ラッシュに焦り始め、勇気を出して不妊専門クリニックの門を叩きました。この時は「タイミングを教えてもらったら、すぐに妊娠するだろう」と気持ちの余裕がありました。
ところが、検査をする中で私に不妊原因があることがわかりました。子宮卵管造影検査の結果を聞くために待合室で待っていると、私を含む5人が同時に呼ばれ、なぜか私だけ違う席に案内されました。よくいうとオープンなクリニックなのですが、仕切りのない長いカウンター席で、隣の人の診察内容が筒抜けなのです。
少し離れて4人が座る席のほうから「皆さん、検査の結果は異常ありませんでしたよ」という先生の明るい声が聞こえました。その後、先生が私のところに来て、私と他の人のレントゲン写真を両方見せて、「これ見て、違いがわかる?卵子をキャッチする重要な役目の卵管采(さい)が両方完全に詰まっていて、これでは妊娠しません。腹腔鏡手術で開通させるか、体外受精しかありません」と深刻な顔で言われました。
検査結果がショックな上に、他の人の写真と比較されたことも屈辱的でした。診察室で泣き崩れ、意識が遠のいた私は、ベッドで休ませてもらってから帰宅しました。
その夜、主人に話すと、彼もショックを受けていました。「私と結婚したばかりに、今頃は父親になれていたのに・・・・」と申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
この現実をなかなか受け入れられなかったのですが、まずは不妊症の本を買い、自分なりに勉強しました。そして、主人と話し合った結果、体外受精に進む前に大きな病院で腹腔鏡手術を受けることにしました。
腹腔鏡手術を終えて、執刀医にくわしく手術の結果を聞きました。「自然妊娠はできない。完全不妊でした。卵巣嚢腫も見つかり、切除しました」とのこと。画像を見ると、「これでは妊娠できないはず」と私でも見てわかるくらい、ひどい状態でした。
手術で卵管は開通したものの、3 カ月後に片方の卵管采が閉じてしまいました。もう片方の卵管采に望みをかけ、1年間タイミング法を試みるも妊娠しません。基礎体温が下がるとその現実が受け入れられず、何度も測り直したり、生理が来るたびにトイレで泣いて・・・・。また、生理が少しでも遅れると、ちょっとした体の変化に敏感になり、ネット検索して「妊娠の初期症状と似ているかも!」と喜び、それもつかの間、生理が来てドーンと落ち込む・・・その繰り返しでした。生理が来たことを主人に伝えると毎回悲しそうな顔をして、それを見るのもつらかったです。
周りからは「子どもはまだ?」と言われると、本当はほしくてたまらないのに「まだいいかな〜」と本心を隠し、顔は笑って心で泣いていました。街でマタニティマークをつけた幸せそうな妊婦さんや親子連れを見ると、「この人たちと私は何が違うの?私は何か悪いことをしたのかな」と思ったり、友人の妊娠報告メールをすぐに消去したり、子連れの集まりには口実を作って行きませんでした。
その頃の私は、不妊治療をしていることを知られるのが嫌で、人との付き合いを避けていました。友人にはもちろん、親にも弱音を吐くことができず、「治療費は私の貯金を使うから」と主人にまで気を遣い、何もかも自分ひとりで抱え込んでいました。そのうち、ホルモンバランスが崩れ始め、今まで順調だった排卵もうまくいかなくなったのです。
そんな私が前向きになれたのは、同じアパートに住む、体外受精で双子を出産した人と知り合ったことがきっかけです。
私が「体外受精を迷っている」と言ったら、その人は「全然迷うことじゃないよ!やれることは絶対やったらいいよ!」と明るく笑って背中を押してくれたのです。
「今まで私が悩んでいたことを、こんなに前向きに考える人もいるんだ」と勇気づけられ、「よし!もうすべて受け入れて、できることは何でもやろう!」と決心がつきました。
その頃から、少しずつ周りに不妊治療のことを話せるようになり、つらいときは友だちの前で弱音を吐きました。すると、徐々に心が軽くなったのです。
友だちが妊娠にいいというサプリメントや子宝のお守り、前向きになれる本をくれたり、また「知り合いに体外受精で出産した人がいるから紹介するよ」と言ってくれたり。そして「ひとりで抱えて、つらかったね」と一緒に涙してくれる友人の優しさに触れました。
私自身も妊娠にいいといわれるものを積極的に取り入れ、夫婦でヨガをしたり、子宝祈願に行ったり、好きな音楽を聞きながらウォーキングをしました。「子どもができたら絶対にできないことをやろう!」とバックパックで海外ひとり旅にもトライ。壮大な大自然やたくさんの人の優しさが、私を癒してくれました。
そんな中、治療に専念するために仕事を辞めました。やり甲斐を感じていましたが、ストレスでじんましんが出るほど、体が悲鳴をあげていたのです。これを機に不規則な仕事柄でコンビニ弁当や外食が多かった食生活を見直し、自分にとことん向き合いました。
退職後すぐ、31歳で初めての体外受精にトライ。9個受精したもののグレードの悪い受精卵ばかりで、移植には至りませんでした。でも画像で初めて見る受精卵は、とてもキラキラしていて愛おしかったです。
次は「数は少なくてもグレードのよい受精卵をめざそう」と卵巣刺激法を変えてチャレンジ。しかし、採卵日の朝に体温が上がってしまい、内診すると、すでに排卵していました。先生も動揺していましたが、「まだ排卵したばかりだから、このまま人工授精をしよう!」と急遽、人工授精をすることに。
「卵管性の不妊で人工授精は意味がないと素人の私でもわかるのに、先生はどうしてこんなことをするの? 採卵に向けて頑張った毎日の注射やお金、時間が無駄になってしまった」と絶望的になり、処置台の上で涙があふれ、止まりません。
その姿を見て、いつもは厳しい先生が「またチャンスはあるからがんばろう! 手術やいろんなことをしてたくさん泣いたけど、妊娠する日が来る! 大丈夫や!」と優しい言葉で私を励ましてくれました。
でも、私の心には響きません。もう何もかも嫌になって、処方された薬を飲むのも基礎体温を測るのもやめました。
しかし、その数日後に東京にいる妹が出産したので、何とか気持ちを切り替えて、家事の手伝いに行きました。初めて見る、自分と血の繋がった姪っ子は、とても可愛くて、まるで自分の子どものように思えました。「私に子どもができなくても、この子がいるから大丈夫!」と肩の荷が下がり、気持ちが楽になりました。
1カ月のお手伝いの後、大阪に戻ると、なんとまさかの妊娠!先生も本当にびっくりしていました。32歳で出産し、2年後にはむずかしいといわれていた自然妊娠で2人目を授かりました。
よく「あきらめたらできる」と聞きますが、私の場合は決してあきらめたわけではなく、不妊治療を受け入れ、公表し、ひとりで抱え込んでがんばりすぎないように、悲しいときはたくさん泣いて感情を出し、周りにサポートしてもらいながら、前に進みました。
治療中は友人の妊娠・出産が喜べない自分の心の狭さを感じ、自分の存在が嫌になって、「消えてしまいたい」と思ったこともあります。
今の私が言えるのは、それは「人間だから当たり前の感情なのだ」ということ、同じように感じている方には、「そんな自分も受け入れ、がんばっている自分にたくさん花丸をあげてください。楽しいこと、心地よいことをしてください。そして、もっと周りに頼っていいのです」、そう伝えたいです。
不妊治療について、もっと気軽に話せる世の中になり、同じ悩みを持った人同士がサポートし合う環境が、どんどん増えて欲しいと心から思います。
私も、そのお手伝いをしていきたいです。