不妊について

不妊体験談「ふぁいん・すたいる」

東京で治療を続けるために退職。40歳で出産後、二人目の治療にも悩みました。
山田恵美子さん(仮名)・会社員

プロフィール名古屋の会社に勤めていた33歳のとき、6歳上の夫と結婚。夫の東京転勤に伴い、希望して東京へ転勤。結婚1年後に不妊治療を始め、37歳で体外受精にステップアップ。名古屋転勤の内示を受け、東京で治療を続けるため退職。派遣で働きながら治療を続け、39歳で妊娠、40歳で出産。42歳で再就職し、半年後に治療を再開。43歳で治療を終える。

名古屋から東京、栃木、東京と転居し、仕事を続ける

私は名古屋出身で、地元企業で働いていたときに、東京の会社から赴任していた夫と知り合い、33歳で結婚しました。半年後に夫が東京に戻ったため、私も東京支社への異動希望を出し、東京に行きました。結婚の際、お互いに子どもを望むことを確認していたので、東京での生活が落ち着いてすぐに、近所の婦人科で検査を受け、タイミング療法を始めました。無理をいって異動させてもらったのに、いきなり妊活しているとは言い出しにくく、職場には「風邪気味」「おなかが痛い」と別の理由をつけて病院に行き、遅刻して出社しました。治療をすれば妊娠できると思っていただけに生理が来たときのショックは大きく、また東京での慣れない仕事に加え、弱音を吐ける友人がいない生活にくたびれていました。
そんな矢先、夫が栃木県に転勤になり、私も一緒に引っ越しました。新幹線で東京まで通勤するため、治療は当分休むことに。夫婦で山登りするようになり、治療を始めてからギクシャクしていた関係も回復、私も元気を取り戻しました。
2年後、夫の転勤で東京に戻ると、私は仕事に力を入れ始めます。東京支社に異動する際、会社から「うちの本社は名古屋。ずっと東京にいられるわけではない」と言われ、「少しでも長く東京にいるには、ここで必要な人材にならなければ」と思ったのです。内勤営業から外勤営業へ転向し、毎晩のように接待で飲む日々に。お酒が大好きな私は、天職だと思えるほど仕事にのめりこみました。
外回りのついでに病院に行けるようになり、会社近くの婦人科で不妊治療を再開。しかし、頑張れば頑張っただけ営業成績が伸びるのが楽しくて、なかなか仕事をセーブできません。人工授精をした日に接待で飲むこともあり、残念な結果が続きました。

接待を中座して排卵誘発剤の注射を打った日

高額な費用と時間のやりくりが大変だと躊躇していた体外受精に、37歳でトライ。10個も採卵できたのに、1個も受精せず、緊急措置として顕微授精に切り替えるという結果に。受精障害ということで、私たち夫婦の場合は、タイミング療法も人工授精も意味がなかった可能性が高く、「もっと早く体外受精をしていれば……」と思わずにはいられませんでした。
その後、胚移植を2回し、さらに2回目の採卵でも受精卵が5個できて胚移植を3回しましたが妊娠しません。治療をしても妊娠できず、それを人に言えないことでつらさが募りました。当時、会社で人員削減が行われていて、「妊活中と分かれば異動させられる」と思うと、治療のことは限られた人にしか話せませんでした。
39歳直前に「これが最後」と思って転院したクリニックで「できるだけ通院回数を減らしたい」と伝えると、こちらの都合を尊重して治療を進めてくれました。会社からの通院時間が前よりも長く、費用は高額でしたが、以前のクリニックよりも通院回数が少なくなり、通院はしやすくなりました。
体外受精の周期が始まると、毎日決まった時間に排卵誘発剤を自分で注射します。接待の合間にお店のトイレで注射したことも、一度や二度ではありません。予定外に胚移植の日と接待が重なったことがありました。でも、曖昧な理由ではキャンセルできません。その日、私はお酒を飲まずに、後輩男性に「今日は受精卵を戻してきたから、私は飲まない。その分、あなたが飲んでね」と頼みました。彼は人工授精で子どもを授かっていたので、私は治療のことを話していたのです。
東京支社にいるために営業成績を上げなくてはいけない危機感、一方で、仕事を頑張るほどお酒の量や多忙でストレスが増え、妊娠から遠ざかるのではないか……という思いも抱えていました。

後輩男性が続々妊娠。上司に治療中だと伝えると……

一番つらかったのは、9人しかいない支社の営業部内で、3人の後輩男性に次々と子どもができたことです。私とチームを組んでいた単身赴任中の後輩男性が双子を授かり、土・日曜に加えて月曜日に休みをとって頻繁に名古屋に帰るようになり、私の負担が増えました。「私だって治療のために早めに帰ったり、休んだりしたいのに」と不満が募りました。でも社内は「奥さん一人で子育てするのは大変だから休みが多いのも仕方ない」という雰囲気。子どものいない私は、仕事であてにされます。一人でイライラして、肉体的にも精神的にも追いつめられていきました。
ついに上司に不妊治療をしていること、自分も休みを取りたいことを伝えました。話してみると、上司はとても理解があり、こちらから話す以上のことは聞かないスタンスで、これにはとても救われました。

治療を続けるために17年半勤めた会社を退職

転院先のクリニックで顕微授精に臨み、胚移植を迎える頃、私が最も恐れていた名古屋への異動の内示がありました。5年で異動が慣例のところ、私は6年間も東京にいたのです。異動先は、土曜・日曜も関係ないハードな部署。胚移植の結果が出てから結論を出すことにしました。
結果は陰性でした。ただ、それまでとは違い、一度は着床してホルモン値が上がったとのことで、初めて希望の光が見えました。妊娠に近づいた気がした私は、「仕事を辞めてでも治療を続けたい」と夫に切り出しました。すると、私以上に子どもを望んでいた夫が、「治療を続けて子どもができるとは限らないのに、仕事を失っていいの? 仕事も辞めて、子どももできなかったらどうするの?」と退職に反対。さらに悩みましたが、自分の思いを貫き、17年半勤めた会社を退職しました。
仕事も、会社も好きでした。異動先が時間の融通がきく部署であれば、名古屋のクリニックに転院し、不妊治療を続けられたかもしれません。しかし、内示のあった部署では治療は無理ですし、着床したことで同じクリニックで治療を続けたい気持ちを抑えられなくなったのです。
夫から出た、会社を辞める条件は「働くこと」。私が治療に集中してしまうのを心配したのかもしれません。有給を消化する間に顕微授精に臨み、状態の良い受精卵が5個できました。退職した翌日から派遣で働き始め、仕事に慣れた頃、半日休みをもらって凍結胚を移植しました。
このときに妊娠し、40歳で出産しました。凍結胚が4個あったため、医師から「二人目も考えられる」と言われ、産後1〜2年したら治療を再開しようと思いました。妊娠後も仕事を続けましたが、派遣で働いて1年未満だったので育休の対象にはなりませんでした。仕事を辞めて、育児に専念しました。

二人目の治療を再開できない、あきらめられない

40歳での出産と子育ては想像以上にハードで、すぐには治療を再開できませんでした。子どもが1歳半になり、やっと再開を考えたとき、仕事の話がきました。繁忙期で即戦力を探していて、経験者である私に声がかかったのです。元の業界であり、経験が役立つと思い、引き受けることに。認可外の保育園を探し出し、すぐに働き始めました。
仕事が忙しく、あっという間に半年が過ぎた頃、やっとクリニックに行き、残っていた凍結胚4個のうち1個を戻したら、妊娠。しかし、流産しました。治療は残っている凍結胚を戻すだけ、全部の胚を戻して終わるつもりでした。しかし、妊娠したことで「絶対、二人目が欲しい!」と思うように。すべての凍結胚を戻しても子どもは授からず、私は43歳になりました。
「少しの可能性でもかけてみたい」という気持ちが消えず、通院先のカウンセラーに相談しました。何回か話をする中で、私は「二人目が欲しい」という思いにとらわれていたこと、また私が抱える問題は「自分の将来に対する不安」だと気がつきました。夫の転勤が多く、自分の仕事が安定しないこと、転居先で人間関係を作る不安などを、二人目の出産や育児で埋めようとしたのかもしれない……。となると、私がすべきことは、取り巻く環境が変わっても大丈夫と思える自分になること。不妊治療から離れる道を選ぶと、あの苦しみはなんだったのかと思うくらい、静かな気持ちで現実を受け止められたのです。
現在は、忙しく仕事をしながら夫と子育てをし、今度は家族三人で山登りをしたいと思っています。

(取材・文/高井紀子)

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